当時を写した貴重な写真から見る自動車修理工場の様子
大正12年(1923)8月に撮影された写真。看板の文字など、自動車黎明期であることを感じさせます。車種については不明で、形状からロールスロイスなどにも見えますが、いずれにしても大型車は一部の富裕層しか買えないほど超高価でした
提供いただいた山本泰史さん。写真に写っている場所で昭和31年(1956)に生まれ、小学校まで育ちました。工場の場所はビルに変わりましたが、最近まで修理工場がありました。
建設中のビルが写っています。都電の向こう側で、右側が現在の高輪地区総合支所です。
https://www.takanawa-konjaku.jp/photo-archives/photo-00252/
右下の歩道橋のある角にあるのビルが写真の場所です
https://www.takanawa-konjaku.jp/photo-archives/photo-00301/#gid=1&pid=1
貴重な写真を提供いただいたのは高輪にゆかりのある山本泰史さん。高輪地区総合支所のすぐそばで生まれ育ちました。祖父の代には地元で修理工場を営んでいたとのことで、写真にはその当時の様子が写っています。当時としてはとても貴重な自動車が写っていて、伊藤さんの祖父、もしくは従業員が自慢げに運転席に座っているのが印象的です。
撮影されたのは大正12年(1923)のことで、裏側には8月15日の文字も記されています。同年発行された『全国自動車所有者名鑑』によると東京のナンバープレートは4997まであり、一部は登録車が抜けていたりするのでそれよりも少ないようですが、予想以上に多いのではないでしょうか。この名鑑には住所と所有者が載っていて、高輪・山本権兵衛という名前を見ることができます。写真に写っている看板を見ると山本助三郎という名前になっているので、関係はわかりませんが、高輪にも自家用車があったことは確かです。ちなみに高輪でほかに自家用車を所有しているのは三菱財閥四代目総帥の岩崎小彌太で、複数台所有していていました。
自動車の背景にある工場の看板には「美術和洋塗業」と「自動車塗粧業」とあります。これは現在の塗装業のことですが、当時は自動車登場以前には馬車の塗装などを手掛けていたことに由来するようです。和とは漆(うるし)を使ったもので、洋は現在のような塗料を使ったものを指し、そのどちらにも対応できることをウリにしていて、当時としては最先端かつ熟練の工場だったことがうかがえます。
高い技術だったことがわかる写真も提供いただきました。工場の前に止められているのは皇室の馬車で、こちらの手入れなどを担当していたようです。似た形状の馬車が現在も使われています。
明治38年(1905)に現在の福岡県での写真もあります。大工などの名前も記されているので、作った際の記念撮影のようです。塗装を担当するためにわざわざ東京から出張していて、これも高い技術ゆえのことだったのでしょう。




